死を乗り越えるための映画

映画館で椅子に座り、上映が始まるまでのワクワクする時間――本書の監修者でもある一条真也氏は、まさに至福の時間であるといいます。
映画の新しい魅力を掘り起こす、一条真也氏の責任編集による、映画ガイドの始まりです。

わたし(一条)は映画が好きなのですが、映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。
映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、映画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。
そのことは、わが子の運動会をデジタルビデオで必死に撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。
そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないでしょうか。
わたしには『唯葬論』という著書がありますが、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。映画が「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思っています。
そう、映画を観れば、わたしは大好きなヴィヴィアン・リーやグレース・ケリーにだって、高倉健や菅原文太にだって、いつだって会えるのです。
映画は、いわゆる「総合芸術」と言われています。アカデミー賞の各賞の多さをみてもよくわかるように、監督、脚本、撮影、演出、衣装、音楽、そして演技といった、あらゆる芸術ジャンルの結晶だからです。
少し前に、茶道に関する本を読んだら、「総合芸術と呼ばれるジャンルは、映画、演劇、茶道の3つである」と書かれていて、納得しました。
わたしは『儀式論』(弘文堂)という著書で演劇と茶道についても言及しました。演劇とはもともと古代の祭式つまり宗教儀式から派生したものですし、茶道は儀式を芸術にまで高めました。
では、映画と儀式は関係あるのでしょうか。わたしは、オープニングに登場する映画会社のクレジットやロゴ、最後のエンドロールがまさに儀式であることに気づきました。映画を観ることは非日常の時間に突入することですが、オープニングはその「開始」を、エンドロールはその「終了」を告げる儀式ではないでしょうか。
古代の宗教儀式は洞窟の中で生まれたという説がありますが、洞窟も映画館も暗闇の世界です。暗闇の世界の中に入っていくためにはオープニングという儀式、そして暗闇から出て現実世界に戻るにはエンドロールという儀式が必要とされるのかもしれません。
そして、映画館という洞窟の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思います。
なぜなら、映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。ということは、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為にほかならないのです。
つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。
わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのですが、それもそのはずでした。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっているのかもしれません。
みなさんが、究極の名画とめぐり逢い、心豊かに人生を修められることを願っています。

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